Dead or Love
アサシンYに気をつけろ。 この街の裏社会に出入りしている人間なら一度は耳にしたことのある忠告だ。 この街の二大勢力の一角、チェファミリーの血縁にして影の男。自由に動きたいからとボスの座を蹴ったとも言われている実力者。ボスの命を受けて闇夜に紛れ、静かに、そして完璧に任務を遂行する。 素顔や本名を知るものはボスをはじめ極一部の幹部に限られている。分かっていることは、相手が常に即死であること―――外科医の正確な執刀のように―――それから漆黒のフードとマント、兎の仮面。普段は極秘任務で動く彼だが、気まぐれに小競り合いの現場に現れては重力などないかのように軽やかに飛び回り敵を仕留めていく。その様子には敵味方関係なく憧れを抱くものも一定数おり、彼を見かけてなお生還した者は必ず興奮して詳細に語るのだった。 「空手?テコンドー?合気道?中国拳法?いくつ修めてるんだろう?古武術みたいな動きもするらしいんだよね」 「何、ヒョン、潜入先でのキャラ作りですか?」 「違うよ!体術使いとしては気になるじゃんか。」 「チェファミリーの幹部なんかに憧れてどうするんですか。ヒョンならきっと勝てますよ。」 「一対一でやりあってみたいけどその時は死を覚悟しないとだね」 「それでなくてもスパイになるんですから気をつけてくださいよ」 チェファミリーと長年の確執があるリーファミリーのアジトで幹部イチャンジュンとスナイパーキムドンヒョンがそんな会話をしていたのは数年前のことだ。
リーファミリーのボス、デヨルは情に厚く、面倒見が良い。幹部は幼い頃から英才教育を受けた孤児院出身者で構成され、共に過ごしてきた時間が長い分強い絆で結ばれている。話術と体術が得意なチャンジュンはボスの命令を受け、宿敵チェファミリーへ潜入するためこの数年地固めを念入りに行なっていた。チェファミリーは実力主義で定期的に採用試験を実施し、入ってからも昇任試験が設けられている。最近も若い手練達が幹部に登用されたらしかった。チャンジュンは構成員候補の斡旋をしている情報屋との接触に成功し、遂に採用任務につくことになった。とある闇取引の現場を取り押さえ、ブツを奪うというものだった。他の候補者の情報は一切与えられず、個人プレーで構わない、とのことだった。 最低限の手掛かりから取引の場所、日時を割り出し、首尾よく侵入できたものはそう多くなかった。さすがはチェファミリーと言うべきか、実力をはかる任務の難易度が既にかなり高く設定されていたようだ。それなりに手強い標的たちを一掃して証拠隠滅を完了するまでにさらに何名も消えていった。結局戦利品を持ち帰ったのはチャンジュン含め3名ほどで、合格通知を受け取ったのはチャンジュンだけであった。 チャンジュンはスパイとなることが決まった時点でファミリーの名簿からは"戦闘にて死亡"と抹消されたおり、疑われないためにも数ヶ月前からアジトにも帰っていなかった。チェファミリーへの潜入に成功した旨を暗号で伝え、信頼を勝ち取るまでは連絡を一切断つことにしていた。
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この街一の私立大学のキャンパス前に陣取る、グローバルチェーンのコーヒー店。学生で賑わうこの店が渡された住所であると確信を持つまでに、チャンジュンは数回同じ通りを行ったり来たりした。指示通りにラフな格好で店に入り、カウンターの店員に声をかけた。 「バイトの面接に来たのですが」 「お待ちしておりました。こちらへどうぞ。」 店長らしき男性はチャンジュンと同じくらいの背丈で黒いTシャツに七分丈のデニムを合わせ、トレードマークの緑のエプロンが様になっていた。 カウンターから通じる従業員専用エリアは思ったより広く、休憩室も4、5人は座れそうであった。 「アイスアメリカーノでいいかな?」 「え?あ…ありがとうございます。チェ、ソンユンさん」 胸の名札を見てそう答えたが、内心かなりビクビクしていた。 チェ…まさかいきなり若頭?いやでも知ってる顔と名前ではない…変装? ボス本人ではないにしろ、兄や血縁の幹部だと思うと緊張してしまい、渡されたコーヒーを一度に半分ほど飲んでしまった。少しでも怪しい言動をしたら終わり、常に死と隣り合わせの任務であるから、上がりそうになる心拍数を必死に抑えた。 「えっと……イチャンジュンさんですね?」 「はい」 「履歴書は拝見しています。採用試験の結果も申し分なかったようで。こちら、契約書です。最後までしっかり目を通してくださいね」 「契約書、ですか?」 「はい。昼はカフェ店員、夜は戦闘員。雇用契約は必要でしょう?」 マフィアが表の顔として不動産会社やカジノを経営していることは良くあるが、構成員をこまでしっかりと管理していることにチャンジュンは驚いた。リーファミリーの場合、ボスや幹部のお眼鏡にかなえば家族として迎え入れることが多く、信頼で成り立つ組織と言える。反対に、能力重視のチェファミリーは言わば外資系企業のようだと思った。 「これがエプロンと名札ね。住居はとりあえずここの上で。幹部候補になれば本館に部屋を与えられるので。」 「本館、ですか?」 「ここの地下と繋がってます。契約書は読み終わりましたか?」 「なるほど。はい、サインはここですよね?」 「それでは、改めて。ここの店長かつ教育担当のチェソンユンです。よろしくお願いします。」 チャンジュンがサインをしたのを確認してからソンユンは手を差し伸べた。柔和な笑顔はマフィアとはかけ離れていて、カフェ店員以外の顔があるという想像がどうしてもできなかった。 「よろしくお願いします。」 「ここからは俺は楽に話させてもらうね。チャンジュンもヒョン、で良いから。」
チャンジュンはその日のうちにスーツケース一個分の私物を3階の部屋に運び込み、渡されたメニューとレシピを覚え始めた。翌日からみっちりとカフェの仕事を教わり、最初の一週間はそれだけでへとへとで戦闘のことなど考えられなかった。元々話術に長けたチャンジュンはすぐに人気店員になったし、ドリンクも手際よく作れるのでソンユンはその働きぶりに満足していた。 任務は最初の週末から始まった。段々と難易度が上がっていき、最初は現場まで一緒だったソンユンもそのうちかなり手前で消えてしまったり遠隔指示だけのことが増えていった。 「ヒョン、今回は幹部も多く参加する大規模な作戦だったんですよね?」 「うん、そうだね。」 「でもヒョン、あの場にいませんでしたよね?」 「俺は安全なところから見てたよ?」 「何でヒョンは戦闘に参加しないんですか?どんなスタイルで戦うのか気になるんですけど。」 「俺は教育担当であって戦闘員じゃないから。それにチャンジュンは一人で問題ないよ。」 「一応バディなんだと思ってたんですけど・・・。」 「ピンチの時にはちゃんと助けるから安心して。」
一年が過ぎた頃にはチャンジュンは幹部候補まで登りつめていた。カフェは辞めても良いと言われたが、仕事は気に入っていたしソンユンと過ごす時間を少しでも長く保つために週4に減らして続けることにした。そろそろ諜報員として本腰を入れようと、チャンジュンは手初めにソンユンをターゲットに選んだのだった。1年観察してみて性格や好みを把握できていたし、可愛がられている自信もあった。客から良く番号を渡されるソンユンがいつも「恋人が居るから」と断っていることも、それが嘘なことも分かっていた。教育係とはいえアジトの看板であるカフェの店長を任される程の地位であり、チェの性を持ち本館に住んでいること。これらを加味すればそれなりの情報源になるとチャンジュンは踏んでいた。 チャンジュンは徐々にスキンシップを増やしていき、熱視線を送ったりプライベートな質問をしてアピールを続けた。本館に移ってからはソンユンの部屋にも頻繁に訪れたが、いつも仕事で不在で空振りだった。ほぼ独り立ちしているチャンジュン以外にも担当している新人がいるのは"教育担当"として当たり前だと分かっていても、どこか気にくわなくてモヤモヤするのだった。 そしてその日は意外とすぐに訪れた。 大きな取引が終わりアジトで開かれたパーティーで、チャンジュンはいつものようにソンユンの姿を探していた。ワイングラスを片手にテラスでぼーっと月を眺めるソンユンはどこか儚げで憂いを帯びていて、一瞬声をかけるのを躊躇してしまうほどであった。 「ヒョン」 「ん?ああ、チャンジュンか。」 「ご一緒してもいいいですか?」 「もちろん。」 チャンジュンが持ってきたチーズをつまみながら、二人で夜風に当たってワインを嗜む。スパイとして潜入していることなど忘れてしまいそうになる贅沢な時間だ、とチャンジュンは思った。 「そうだ・・・チャンジュナ、もう俺なしでも良いよな?」 「え?どういう・・・」 「教育担当外れようかなって。新人卒業、って言えばいい?」 「・・・」 「元々採用任務の時点でレベル高かったし一人で危険な任務も出来てるし、ボスも満足してたよ。」 「大体いつも放置してたじゃないですか。」 「チャンジュンの腕を信じてるからね。」 「俺に拒否権はないんでしょう。」 「まあ、いつかは一人前になるものだから。・・・嫌なの?」 「認められるのは嬉しいんですけど・・・ヒョンに見ていてもらえなくなるのは寂しいです。」 「チャンジュナ・・・」 「ソンユニヒョン・・・俺、ヒョンのこと・・・」 初めてのキスはワインの味がした。二人はそのまま新しいボトルを掴んで会場を後にした。ソンユンの部屋は生活感がなく、無機質だった。ワインを飲んではキスをして、キスをしてはワインを飲んでを繰り返して、いつしかベッドの上で見つめあっていた。言葉は必要なかった。ソンユンはとにかく優しかった。優しすぎて、チャンジュンは邪な気持ちで接していることに罪悪感を感じるほどであった。それと同時に、どこか満たされているのも確かであった。
良くも悪くもマフィアらしくないソンユンの前では、チャンジュンも甘えが出てしまうようになった。ソンユンの指導の手が離れても、無理を言って近くまで送り迎えをしてもらっていた。幼い頃から叩き込まれた体術には隙など無かったしスパイになる前もいくつも死線をくぐり抜けてきたのに、ソンユンに背中を押されることで無敵になれる気がしていた。 だからこそ油断していたのかもしれない。ある任務で、チャンジュンは判断ミスから敵に捕まってしまった。柱に縛り付けられ、今にも拷問が始まろうとしていた。 パンッ 殴られるのを覚悟して目を瞑ったチャンジュンの足下に、ドサッと何かが倒れ込んできた。薄目で確認すると、さっきまで目の前でニヤニヤしていたはずの男だった。周りに居た男達もどんどんと倒れていく。だだっ広い廃ビルを飛び回る影にチャンジュンははっとした。漆黒のフードとマント、そして兎の仮面。チェファミリーの最高戦力、アサシンYである。噂通りの華麗さであっという間に全員を片付けると、お礼を言うまもなく窓から暗闇に消えてしまった。 死体処理班に一報入れて対象物を回収し、タイミング良く現れたナンバー6716の黒塗りのBMWにチャンジュンは興奮気味に乗り込んだ。 「ヒョン!聞いて下さいよ~~~!」 「どうしたの?」 「俺もやっとアサシンYに会えたんです!」 「チャンジュンもYに憧れてるの?」 「そりゃあそうですよ!やっぱり聞くのと見るのとじゃ全然違いました・・・想像してたよりずっとかっこよくって。」 「良かったね。ちょっと妬いちゃうけど。」 「ヒョンは正体知ってるんですか?もしかして兄弟だったりします?」 「んー・・・近いうち会えるんじゃないかな?」 「本当ですか?楽しみだなあ・・・手合わせしてくれるかな・・・」 "アサシンYに会える" そう思うとチャンジュンは熱いものが湧き上がってくるのを抑えられそうになかった。そんなチャンジュンを見て、ソンユンは"その日"がさらに楽しみになっていた。 「そういえばヒョンはどうして助けに来てくれなかったんですか?」 「Yが行ったんだからいいでしょ。それより、もう失敗するなよ?」 そう言って髪の毛をぐしゃぐしゃにされると、チャンジュンは子供の頃に戻ったような気分になるのだった。
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チャンジュンがリーファミリーに情報を流すようになって数ヶ月が経った。本館での生活にも慣れ、ソンユンとの関係も至って順調であった。本当の家族のように付き合うリーファミリーと比べてしまい互いに深く干渉しないチェファミリーの面々は冷めていると思っていたチャンジュンも、彼らと過ごすうちに考えを改めるに至った。若い幹部達はソンユンをとても慕っている様子であったし、カフェの店員としてだけでなく、ファミリー内でも"優しいお兄ちゃん"という立ち位置であることは疑いようがなかった。ソンユンの隣を維持するチャンジュンには鋭い嫉妬の視線が向けられることもあった。
「ソンユニヒョン~俺もう今の任務やめたいんですけど!!」 「二人ともお疲れ。何かあったの?」 「何もないからですよ!!見張りなんてつまんないです!俺は戦闘員ですよ???」 「二人に任せるのにはちゃんと意味があるんだよ。ね、こう考えてみて。見張りって一番に敵を見つけられるんだよ?そしたらその敵みーんな、お前のものだよ。お前が殺っちゃって良いんだよ?好きなだけ暴れて良いんだよ?」 お客さんに見せるのと同じ笑顔なのに、さらっとこんなことを言ってのけるソンユンに、チャンジュンは初めて"マフィア"の片鱗を見た。この人はどんな風に殺しをやるんだろう?本当に裏の顔はないのだろうか? 「本当に現れるんですか?どのくらい?俺、本当に全員殺していいの?」 「情報は確かだから。数日以内には必ず来るよ。」 「んー・・・分かりました、ヒョンがそう言うなら。」 「さすがヨンテク、頼もしいよ。嬉しい報告待ってるね。」 「ソンユニヒョン、いつもすみません・・・ありがとうございます。俺からも説明したんですけど・・・性に合わないことだと集中できないやつなんで。」 「スンミンこそ大変でしょ。夜までゆっくり休んで。援護射撃もよろしくね。」 ファミリー内でも恐れられている刀使いの戦闘狂と冷静な二丁拳銃のバディですら、ソンユンの前では可愛い弟に見えてくるから不思議である。
ある新月の夜。 リーファミリー宛のデータを受け取った中継ぎが誰にも悟られることなく葬られた。チップをボスの下に届けたのはアサシンYであった。 「ボミナ、例のスパイだけど、決定的な証拠掴んだよ。」 「やっぱりリーファミリーでした?」 「うん。もう泳がせなくて良いよね?始末する?」 「殺しちゃって良いですよ。」 「殺すより面白いこと思いついたから試してもいい?」 「ヒョンに任せますよ。」 アサシンYは中継ぎを装ってチャンジュンに伝言をし、リーファミリーの諜報部との接触の場を設けた。罠であることも知らず、チャンジュンは指定された地下駐車場に姿を現した。右から三番目の柱のくぼみに貼り付けられた保護色の封筒。剥がして中身を確認すると、真っ黒な名刺に赤いYの文字。しまった、と思ったときにはもう遅かった。 カチャッ こめかみに銃口、首筋には短剣が突きつけられた。そのままくるっと身体の向きを変えさせられ、瞳に映ったのはあの夜と同じ兎の仮面だった。 「チャンジュナ」 その声にチャンジュンは耳を疑った。冷たく響くそれは、ソンユンのものであった。 「お前が思っているとおりだよ。」 反応に気づいたその男がゆっくりと仮面をとった。黒い瞳が二つ、真っ直ぐにチャンジュンを見据えていた。 「ソン・・・ユニヒョン・・・」 「新人教育はスパイ監視も兼ねてるんだよね。」 「じゃあ最初から・・・?」 「どうかな。」 「知ってたなら何で俺の誘いに乗ったんですか?」 「お前のこと気に入ってたから。俺を選ぶなんて恐いもの知らずだなあって楽しませてもらってたよ。」 ソンユン・・・もといアサシンYが過去形でそう語りながらぐっとさらに深く銃口を押しつけた。チャンジュンは死を悟った。ここまでだ、と思った。まだたいした働きも出来ていないのに、リーファミリーに何も持ち帰れていないのに、こんなところで殺されるなんて情けなくて仕方なかった。それでも、憧れのアサシンYに殺されるならまだましなのかもしれない。 「チャンジュナ」 「あの日助けてくれたのはソンユニヒョンだったんですね。ありがとうございました。本当はヒョンと模擬戦がしてみたかったですけど・・・スパイは抹殺がルールでしょう?」 「お前のことは殺したくない。」 「ヒョンがチェファミリーじゃなきゃよかったのに。」 「そしたら出会ってないだろ。」 「ヒョンのこと、本気で・・・」 その先の言葉は口づけによって遮られた。どこか切なくて、でも全てを奪うような熱い口づけだった。 「俺のものになれ。」 「どういう・・・」 「Dead or Love?(死か愛か)」 「Love(愛してしまったから)」 いつからだったかは分からない。蛇のように狡猾なソンユンに外堀から埋められて、チャンジュンは心まで奪われていたのだ。逃げ道など、初めからなかった。
"アサシンYに気をつけろ" 今さら何の意味もなさない警告がリフレインした。
*** 何とかカムバ前に外伝書けたーーー! アサシンY絶対かっこいい。 2021.10.03
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