The other half




初恋だった。16歳のイチャンジュンにとってチェソンユンが全てだった。細かいことまであらゆることを、今でも鮮明に記憶している。

出会いは入学式の帰り道。バスに落としたスマホを、拾って追いかけてくれた同じ制服に身を包んだ先輩。それがチェソンユンだった。

「これ、君のでしょ」

「え?・・・本当だ・・・すみません、ありがとうございます!」

「気をつけてね。最新モデル、悪い人に拾われてたら戻ってこないよ」

「入学祝いで・・・。あ!もしかしてわざわざ降りてくれました?運賃払います!」

「新入生カツアゲするように見える?俺も最寄りここだから。あの団地」

「あ、俺もそこです!ご近所さんですね!一年のイチャンジュンって言います。以後お見知りおきを!」

「おー、よろしくね。三年のチェソンユンだよ」

初対面だろうが先輩だろうが怯まず前のめりなチャンジュンに、ソンユンは若干引いていたかもしれない。マシンガントークはチャンジュンの自宅前まで止まることはなかった。

再び相まみえたのはバス停ではなく、部活だった。

「よし、じゃあ入部希望の一年を紹介するぞ。まずは・・・イチャンジュン。中学で結果を出してる実力者だ」

「イチャンジュン?」

「あーっ!!ソンユン先輩!テコンドー部だったんですね!」

「何、お前ら知り合いか?」

「最寄りが一緒で・・・」

「ちょうど良い、お前らペアな」

それから何度も手合わせを繰り返し、朝練へ共に向かい、放課後の練習後も共に帰宅して、誰が見ても仲の良い先輩後輩ができあがった。教室ではスポーツマンらしく寡黙で一匹狼に近いというソンユンは、学食でチャンジュンと笑顔でふざけ合っているところを目撃されてからというもの、遠巻きに色めく女子が増えていた。そんな女子達に半ば見せつけるようにスキンシップをとっては優越感に浸り、チャンジュンはソンユンの気持ちを確かめていた。

そして、初めての練習試合の帰り道。ガラガラのバスの中、ごく自然に指と指が絡まった。

「あっ!!!!」

歩道を指さして叫んだのは、運転手の注意をそらすため。このころのチャンジュンは、きっと何でも出来ると思ってた。羞恥心より好奇心、恐怖心より恋心が圧倒的に脳内を占めていた。 一瞬触れただけの、幼稚園児のような可愛すぎる口づけだったが、効果は覿面だった。

「ヒョン、俺のこと好きじゃないですか」

驚いた顔で何と言うべきか考えあぐねているソンユンに、チャンジュンは畳み掛けるようにこう尋ねた。

「そうだね。チャンジュンも俺のこと大好きだよね」

甘酸っぱい、幸福な日々の始まりだった。 思いつく限り、10代の二人の等身大のデートを沢山した。登下校だけでなく、大会へのバスだって隣りに座った。練習も勉強も行事も遊びも、いつも全力で楽しんで、大好きな恋人の姿を瞳に焼きつけた。

あの頃の自分を一言で表すなら、恋に恋する浮かれポンチ。自分が主人公だと、世界で一番幸せだと思い込んでいた。ソンユンが運命の人だと本気で信じていたし、一生一緒に居るのだと漠然と思っていた。初恋に終わりが来るなんて想像すらしていなかった。………終わりが来たことをすんなり受け入れられるほど大人ではなかった。

最後に会話をしたのは卒業式の日。部活の走行会を終え、いつものように共に帰路について、いつものようにチャンジュンの家の前で手を振って別れた。ソンユンに特に変わった点は見られなかったし、さよならを示唆するような会話もなかった。明日もまた会えるはずだった。大学も近かったから、頻度は下がっても付き合いには影響しないはずだった。 でも、その日を境に連絡は途絶えた。ソンユンの家は空き家になっていて、まるで夜逃げのように忽然と消えてしまった。

「なぁ、チャンジュナ。ソンユン先輩どこの大学行ったの?」

近所の大学には同じ部の先輩が何人も進学していたが、そこにソンユンは居なかった。

「ソウルの強いとこ…です」

その時はそう誤魔化したが、大会でも見当たらなければすぐにばれる嘘だった。テコンドーを辞めたという線は考えたくなかった。ちゃんと別れを告げられることもなく、自然消滅の形で終わりを迎えた事実に、チャンジュンは最後まで対抗をした。ソンユンは怪我をして部活を辞めたこと。予定より早く兵役へ行ったこと。その後は留学へ行ったこと。すれ違いが増えて別れたこと。チャンジュンはたくさんの嘘で初恋を塗り固めた。ソンユンと出会い多くの時間を過ごした高校とこの街を出るまで、チャンジュンはついぞ認めることも忘れることもできなかった。 チャンジュンがソンユンの真意を知るのは、それから4年後。初恋が消えてから8年も経ってからだった。

*

人生最大にして最後の恋だった。幼いなりに本気だったし、ずっと一緒に居たいと思っていた。将来のことだって考えていた。でも、神様はそれを許さなかった。

スヌンの翌日から続いた高熱が少し和らいだとき、異常なほど感覚が発達していることに気づいた。この街すべての音が一気に耳に流れ込んでくる感覚。効きすぎる嗅覚。念じると物や自分を浮かせることができた。存在することは知っていたが、自分がそちら側の人間だとは考えたこともなかった。母に連れられ政府機関で精密検査を受け、正式に診断結果が示された。

──センチネル。人口の1%に満たない能力者。

この国では、力の種類や本人の学力、身体能力などを総合的に判断して警察、軍、タワーの然るべき部署に配属される。政府の決定に従うか、犯罪組織や裏社会で生きるかの二者択一。いずれにしても、一般人と交わることはないし、普通の生活を送ることはできない。

「いつかこんな日が来る気がしていたの」

兄…つまりソンユンの叔父にあたる人がセンチネルだと告白した母はそう話しながら涙をこぼした。 センチネルだとは判明したとき、ソンユンが真っ先に考えたのはチャンジュンのことだった。世のため人のために力を使い働くことが義務である以上、ガイドと組むことも避けられない。ペアに心をあげる予定などなくとも、一般人と付き合うことにはきっとすぐ限界が来てしまう。所属先によっては簡単に街にも出られないだろう。住む世界が変わってしまったのだ。もう、これ以上一緒に居ることはできない。 高校だけは卒業まで通わせてもらえるよう頼み込み、最後の日までいつも通り過ごした。この何気ない日常が死ぬほど恋しくなる日がきっとすぐに来るだろう。センチネルに生まれた自分を恨んで恨んで恨み続けるだろう。裏切られたと思われるかもしれないし、たくさん傷つけてしまうだろう。それでもどうか、チャンジュンの中の自分は笑っていますように。

本人には何も言えぬまま、ソンユンは家族とともに韓国から飛び立った。浮遊能力と身体能力の高さから、在米タワーへの所属が決まったのだ。半年は訓練に明け暮れ、力の制御の仕方や効果的な使い方を習得した。比較的自由が許されていて家族と頻繁に会えたおかげで、ソンユンは新しい環境でもなんとか生き延びることができた。

災害救助や犯罪捜査など様々な場面で重宝されるセンチネルはアメリカでは優遇されていた。知名度も高く、ヒーローのように人気があった。しかしメディアで取り上げられるのはポジティブな面だけであり、力の使いすぎで命の危険があることやガイドなしで生きられないことはあまり認知されていなかった。人類の歴史の中で、時代や民族によっていくつもの呼び名で記されてきたセンチネルに対し、ガイドは長らく謎に包まれてきた。センチネルとの接触がなければ本人が力に気づくこともなく、一般人として一生を終えるものも多い。 近年やっと研究が進み、センチネルより若干人口が多いことや、DNA検査で7割程度の精度で検出できることが明らかになった。そのため現在では、多くの国でティーンエイジャーのうちに毎年検査が行われている。センチネルが心置きなく任務に専念できるためにはガイドの確保は常に急務であるから、各国とも血眼になってガイドを探しているのが現状であった。加えて、センチネルとガイドのマッチングシステムもこの数年で構築され、ここアメリカは世界一のデータ量を誇る。なるべく相性の良いパートナーと組みたいと考える人が世界中から集まることでさらに精度が上がっていく。 ソンユンが当初組んでいたガイドも好条件の相手に出会って国に帰った。3番目のパートナー、キムドンヒョンは逆に運命の相手を夢見てやってきた。13歳と早くに発現し、中学の間は普通の学校とタワーを行き来していたというドンヒョンとソンユンの相性は84%だった。アメコミヒーローが好きだと話し、映画のスタントの仕事があるといつもより生き生きとする。

「やっぱり運命の人なんて居ないんでしょうか」

「経験談がそれなりにあるんだし、居るには居るんでしょ」

「でもせっかくアメリカまで来たのに最高で84%ですよ?」

「そのうち現れるんじゃない」

「なんでそんな他人事みたいに・・・ヒョンは100%の人に会いたくないんですか?」

「95%以上は誤差みたいだから、何かを感じるならきっと運命なんじゃない?」

「質問の答えになってないですよ」

「ああ・・・俺は85%以上とは組まないって決めてるんだ」

「普通逆じゃないですか?」

「好きな人が居るんだ」

「・・・一般の方なんですね」

ドンヒョンは瞬時にそう悟った。ガイドならまだしも、センチネルは外の世界で生きることは不可能にちかい。

「万が一にもその"運命の人"とやらには出会いたくない。俺はアイツのことだけを一生想っていたいんだ」

――その運命の人には申し訳ないけど。地球の裏側に居るか、もう他の誰かと結ばれて欲しい。もちろん、チャンジュナもそう。 他の人と結ばれるなんて考えたくない、とソンユンは悲しそうにふっと笑ってハンバーガーをがぶりと頬張った。

「ヒョンなら確かに大丈夫だとは思いますけど」

ソンユンは、ほぼガイドなどいらないくらい力の制御が得意で皆のお手本となる存在である。それでも何だか寂しい、とドンヒョンは思った。その人をどれだけ強く想っていたとしても、それを塗り替えるくらいの出会いがあるかもしれないのに。ヒョンの心を溶かして幸せになれる相手かもしれないのに。叶わぬ恋を貫いて一人で一生を終えるなんてドンヒョンには理解できなかった。

「そう、本当はガイドなんていらない。ドンヒョンももっと100に近い人が現れたら俺とのペアは解消してね」

任務は完璧に遂行するし、市民との交流ではアイドルかのように笑顔を振りまいているソンユンは、仕事以外では誰とも深く関わろうとしない。その理由はきっと過去の恋にあるのだろう。 数字は嘘をつかないとシステム開発者が豪語していたように、ソンユンとドンヒョンは実際上手くいっていた。内向的で一人の時間を大切にするタイプだからお互いにビジネスに徹することは難しくない。運動神経が良く、真面目でストイックなところも共通していたから、危険な任務でも向かうところ敵なしであった。そんな二人の評判は海を超え、ソウルのタワー上層部にも届いていた。ドンヒョンとペアを組んで三年後、軍と警察の合同作戦に参加するためソウルに呼び戻されることになった。ソンユンにとっては8年ぶりの帰国である。

*

ソウルに来て半年が経った頃、チャンジュンの人生に大きな転機が訪れた。 講義の合間に映画を見た帰り。ショッピングセンターのベンチにうずくまる高校生を見つけて駆け寄ろうとしたその瞬間、彼の手から赤い炎が飛び出した。

──なんとかしなきゃ…!

とっさに手を伸ばし、がしっとその両手を包み込んだ。覚悟していた熱さは感じず、むしろ心地よいくらいだった。状況を上手く理解できないまま、念じるようにそのままでいたら、頭上から声が降ってきた。救急隊が到着したらしい。

「手を離さないで。君も一緒に来てください」

「え?あ…はい」

ストレッチャーに寝かされた男の子に付き添って、チャンジュンはそのまま救急車に乗り込んだ。数十分揺られて到着したのは近未来感のある白く無機質な病棟だった。検査着に着替えさせられ、ありとあらゆる数値が測られ、心理テストのようなものも受けさせられた。そして最後にカウンセリングルームに通された。

「えっと…イチャンジュンさん、ですね」

「はい。あの…ここは?」

「タワー直属病棟です。国立機関ですよ。センチネルってご存知ですか?」

「うっすらと…聞いたことはあります」

「君と一緒に来た男の子はセンチネルです。そして君はガイドです」

「ガイド…?」

「こっちは知らないですか。簡単に言うと、センチネルを制御できる唯一の存在です。君が手を握ったとき彼の暴走が和らいだことに気づいたと思います」

「確かに…それが俺の、ガイドの能力ってことなんですか」

「そうです。検査結果もそれを裏付けています」

中高で行われていた健康診断がセンチネルとガイドの炙り出しを兼ねていたこと、それでもガイドはすり抜けも多く、今回のように偶然見つかることもあること、見つかった場合はタワーで生活し、センチネルをサポートする義務が課されること。医師は淡々と説明を続けた。大学は辞めることになるが、タワーでもオンラインで学ぶ機会はあること。また、配属先は体力テストの結果やペアとなるセンチネルの特性によって決まること。

数日後にはもう、チャンジュンはタワーのアパートに入居していた。ソウルのタワーは敷地内に街のようなエリアもあり、娯楽施設も充実している。大企業の福利厚生と同様に、タワー内で働く人は誰でも自由に使用することができる。 体力テストで歴代2位の記録を叩き出したチャンジュンは危険度の高い任務に関わる特殊部隊配属を目指して訓練することとなった。アパートの隣の部屋はあの日助けた男の子、もといチェボミンである。適合率が88%と高く、正式なペアに決まったからである。ボミンはソウル内の名門校に通う高校一年生であった。午前中はタワー内の高校に通い、午後は共に訓練を受けた。部隊の中でマンネであり甘え上手なボミンのおかげでチャンジュンはすっかり本来の明るさを取り戻していた。年齢のせいもあって不安定な時期にあくまでセンチネルとガイドとして、仕事として、何度か唇は重ねたが、身体を重ねることはついぞなかった。

「ヒョンは何か…おしいんですよね。88%に納得っていうか、妥協点?感じるものはあるんですけど、運命とは別な気がして」

「それは俺も同感。実際運命な奴らが周りにいるから余計にね」

数ヶ月後に来たガイドであるキムジボムに初対面で「お前だ」と言ったボンジェヒョンの話はあまりにも有名だ。長らく色んなセンチネルと組んできたメンタルコーチのイデヨルも、ホンジュチャンとペアになってすぐに結ばれて刻印まで済ませてしまった。 また、チャンジュンとボミンがやってきて一年ちょっとでやってきたセンチネルのソンヨンテクはどのガイドも上手く対応できず半年ほど入退院を繰り返していた。

「俺はきっとこのまま一人寂しく死ぬんですね」

チャンジュンが担当したとき、ヨンテクは寂しそうに窓の外を眺めていた。マッチングシステムが好数値を示したガイドが地方から派遣されると聞いたときも、期待はしていない様子だった。しかし、そのガイドが到着する直前、ヨンテクははっと飛び起きて門までなにかに突き動かされるように駆けていった。そのまま、車から降りてきたそのガイドに抱きついて大声で泣き出したのである。

「遅くなってごめんね」

「スンミナ、来てくれてありがとう」

聞けば、少し前からテレパシーが送られてきていたらしい。そのような交信は運命の場合のみ可能とのことだ。 このようにまざまざと"運命"を見せつけられるとどうしても高望みしてしまうのだ。

「ヒョンのことも好きなんですけど…まあまだ覚醒して一年ですし、気長に待ちます」

「お前のことは心配してないよ」

──運命、か。 忘れたわけではないあの人が頭をよぎった。今どこで何をしているのか。誰と居るのだろうか。俺のことは覚えているだろうか。 たまに無性に恋しくなるチャンジュンの初恋、チェソンユン。タワーに来て3年半後、やたらと夢に出てくるようになる。 

*

チャンジュンとボミンが組んで4年が過ぎた頃、ソウルのタワーはいつになく人が増え慌ただしい日々が続いていた。長らく燻っていたとある組織を殲滅させるため、軍と警察の共同作戦が動き出したからである。その作戦の助っ人に、と在米タワーから最強のペアも派遣されるという。アメコミのヒーローみたいな奴ららしい、とヨンテクが興奮して話していた。難易度が跳ね上がっていく訓練で疲れ果てていたチャンジュンは特に興味も示さず、その日はいつもどおりボミンと買い物に出かけていた。タワーの一角にある商店街の市場で一週間分の食材を買い込み、重い重いと文句を言いながら歩いていた。

「お前の力が浮遊とかだったらなぁ」

「あ、」

「何?」

ボミンが立ち止まって見据えた先にはデヨルと、そして見慣れない二人のシルエット。近づくに連れて速くなっていく鼓動と上がっていく体温。

──そんな、まさか、そんなことって…。

ペコリ。隣のボミンが頭を下げた。

「はじめまして。センチネルのチェボミン、00年生です。もしかしてアメリカから来た…」

「そうそう、今回の作戦に参加してくれるペアだよ」

「はじめまして。センチネルのチェソンユン、95年生です」

「はじめまして。ガイドのキムドンヒョン、99年生です」

「チャンジュナ、どうした?自己紹介して」

「ソンユニヒョンですよね…俺…俺…」

「ごめんなさい。人違いだと思いますよ」

そう言って申し訳無さそうに微笑むソンユンにチャンジュンは言葉を失った。

「えっと…こちらはガイドのイチャンジュン、97年生です」

固まるチャンジュンのかわりにデヨルがそう紹介した。ソンユンは眉一つ動かさない。

──なんで。どうして。 忘れるわけなんてないでしょう?見た目だってそこまで変わっていないのに。

「敷地の案内途中だからもう行くぞ?来週正式に顔合わせあるから。ではお二人共、こちらへ」

三人が角に消えると同時にチャンジュンは地面にへたり込んだ。

「チャンジュニヒョン、俺、たぶん見つけました」

「…」

「キムドンヒョン。俺のだと思います」

「でもあの二人はパートナーでしょ」

「いや、違いますよ」

「何で言い切れるの」

「運命なら分かるってみんな言ってたじゃないですか」

「だけど…」

「俺はあの人を手に入れますよ。それで?ソンユニヒョンは元恋人かなにかですか?」

「ただの高校の先輩だよ」

あの頃から嘘が下手なところは変わらない。それにきっとボミンは気づいた上で尋ねているのだ。

「ただの、で人違いですか。まぁ頑張ってください」

どこまでも淡白で自分本位なボミンが、チャンジュンは羨ましかった。いっそのこと自分から他人のふりができたらどんなに楽だっただろう。

月曜日。 朝会で二人の紹介があった。アメリカでヒーロー活動が長いとの前情報のせいで屈強な二人をイメージしていた隊員たちはデヨルの横に立つ二人を見てまず疑った。平均的な身長に細めのソンユンとスタイルは良いが小柄なドンヒョン。デヨルが功績を列挙しても寡黙で謙虚な態度を崩すことはなかった。いざ訓練が始まるまで、死線を乗り越えてきたペアの風格は微塵も感じられなかった。最先端技術を駆使した戦闘服に身を包んだ姿を見ても半信半疑だった彼らであったが、二人が基本メニューを完璧に、そして一瞬で終えた時点で態度を改めた。身体能力で張り合えるとすればチャンジュンくらいなもので、正確さに至っては何歩も先を行っていることが一目瞭然であった。ソンユンは能力をデモンストレーションすることにもとても慣れていて、その場のみんなは小学生に戻ったように目をキラキラさせていた。

「では次に他人や物を浮かせます。誰が試したい方はいますか?」

その場に浮いて宙返りなどを披露した後、そうソンユンが呼びかけた。いの一番に手を高く挙げたのはジュチャンであった。 「はい!!飛んでみたいです!!」

──空が飛べたらなぁ。 高校生の時、ソンユンが天を仰ぎながらよくそうつぶやいていた。

今でもくっきりと脳内に描き出せるその光景にチャンジュンの顔が陰った。望んだ力を手に入れたときソンユンは何を思ったのだろうか。 ソンユンに促されるままに某ヒーローのようにまっすぐ飛んでみたり、スイスイと空中を泳いでみるジュチャンもまた、チャンジュンには眩しすぎた。あんなふうに無邪気に振る舞えたらどんなにか楽だろう。 本格的な訓練が始まると、ヨンテクとジュチャンを先頭にセンチネル達がわーっと群がっていく。

「ソンユニヒョン、今はどのくらいの出力でしたか?」

「うーん…5%くらいです」

「えっ!??そんなことが可能なんですか?」

「俺もそうなれますか!?」

「鍛錬すればなれますよ」

ソンユンの驚異的な制御率は才能ではなかった。ガイドに頼りたくない、ガイドなしで生きていきたい。その一心で身に付けたものだ。スキンシップの頻度や深度を限りなくゼロに近づけることが最大の目的であった。 それに加え、いずれアメリカに戻りつもりであるから、ここでの馴れ合いも最小限に留めるはずであった。事実、訓練終了時刻になるとすぐに帰宅するよう心がけたし、ランニング中やコンビニで誰かに遭遇しても挨拶程度で受け流していた。それでも一週間経つ頃には敬語がとれ、ヒョン呼びを許し、一ヶ月経つ頃には個人レッスンを請け負うようになっていた。想い出など増やしたくないのに、慕われたくなどないのに、何より誰よりチャンジュンの居場所だと思うと居心地が良くなってきてしまうのだった。

──俺はお前がガイドだったなんて知りたくなかった。タワーでなんか再会したくなかったんだよ、チャンジュナ。

それでも、完璧なパートナーを持ち、素敵な仲間に囲まれて過ごしていることが分かってホッとしたのも本心であった。もし同時期に力が発現していたら隣にいたのは自分だったのか、なんて考えてしまった夜もあったけれど。チャンジュンが笑っていることが唯一の望みで、自分の幸せであるべきなのだ。一方通行で良いのだ。あのときそう決めたのは自分なのだから。

──チャンジュンの今の日常に1ミリたりとも干渉したくないんだよ。そんな顔をさせたくはないんだよ。

今にも泣きそうな表情になるくらいなら、話しかけようとするのはもうやめてほしかった。

*

「ソンユニヒョンめっちゃかっこいいんですよ!」

「ハリウッドでのことらしいんですけど…」

「体力テスト歴代1位、ソンユニヒョンでした」

周りから聞かされるエピソードから感じ取れる人柄は、チャンジュンがよく知る高校生のソンユンと変わらない。今のチャンジュンの瞳に映るあまりにも冷たいあの男にかつての面影は見当たらないというのに。初対面のふりをされてからも態度は変わらず、覚醒のショックで記憶を失う症例があるのかと調べたほどであった。心を開いてくれる気配は微塵も感じられず、あげくチャンジュンにだけは敬語を使い続ける始末。自分だけがきっと嫌われていると思うと悲しくてたまらない。それなのに心はいつもソンユンを探していて、ドンヒョンには嫉妬して、気づけばあっという間に堕ちているのだった。

──どうして知らないふりするの?俺はヒョンに会えて嬉しいのに。ヒョンがセンチネルだって分かってすごく嬉しいのに。運命かもって思えたのに。

またあの頃のように笑い合いたいと願うのは俺だけなのだろうか。 そんな中、顔合わせの日からソンユンに教えを請わない人物がいた。ドンヒョンのくっつき虫と化した男、チェボミンである。

「ドンヒョニヒョン、ちょっと俺と組んでみてください」

「パートナーのいる人のヘルプは緊急時のみと決まってます」

「訓練中くらい良いじゃないですか〜」

「でも……」

チラッとドンヒョンがチャンジュンの顔色をうかがった。センチネルとガイドにとって、恋人が堂々と浮気を宣言したと同義であるのだ。

「当部隊では合意があれば自由ですよ。もちろんプライベートも」

「チャンジュンさんは気にしない、と?」

「ヒョンでいいよ!うん、ちょっと癖ある子だけどドンヒョンの実力なら問題ないと思うし」

「チャンジュニヒョンもこう言ってますし!とりあえず基礎訓練から付き合ってください〜」

「あ、でも待って。ソンユニヒョンの許可は…?」

「それは聞かなくても大丈夫だと思います。ビジネスペアなので」

──ビジネスペア。つまりソンユニヒョンとドンヒョンは恋人でも運命でもない。

その事実にホッと胸を撫で下ろしてしまうあたり、チャンジュンはやはりソンユンへの想いを断ち切れていないことは明白であった。これが刻印まで済んでいるなんて答えだったら、きっとチャンジュンは胸が張り裂けていただろう。

「やっぱり!そうだと思いました!ってことはドンヒョニヒョン、運命の人にはまだ出会ってないんですよね?ちなみにソンユニヒョンとの測定値いくつですか?」

「84ですけど…」

「俺とチャンジュニヒョンは88でしたっけ?たしか」

「あ、うん」

ソンユンとドンヒョンの値が自分とボミンのものより低いこともまた、チャンジュンを安堵させるには十分だった。まともに会話などできない現状では、ソンユンが誰のものでもないという事実だけで救われるのだった。

ドンヒョンよりずっと背が高く見た目も大人っぽいひとつ歳下のセンチネル。ボミンはその日からことあるごとに「ドンヒョニヒョン〜〜」と甘えるようになっていた。ボミンとチャンジュンが真の"パートナー"だと思っているドンヒョンは、いくらチャンジュンの許可があろうとやはり抵抗があった。ビジネスペアであるソンユンにも少し罪悪感を感じたほどボミンはあからさまだった。

そのソンユンはといえば、ドンヒョンの予想とは全く違う理由でいらついていた。パートナーであるチャンジュンをほったらかしてドンヒョンにアプローチするボミンが気に食わなかったのだ。ボミンにはなにか魂胆があるようで、ビジネスペアであることをチャンジュンにも口止めをしていた。

「どうせばれるだろ」

「だから、それまではわざわざ言わなくてもいいじゃないですか」

「わざわざ黙ってる必要もないだろ?」

「まあまあ、協力して下さいよ」

ドンヒョンに真実を告げられないということは、ソンユンにも誤解されたままということになる。チャンジュンにとっては迷惑な話で、本当はさっさと全て話してしまいたかった。ボミンがドンヒョンを運命だと感じていることも、自分とボミンがソンユンが思っているような関係ではないことも。そして結局、なかなか靡かないドンヒョンに憤りを感じ始める始末だった。

ボミンの強い希望で任務も共に行うようになって数週間が過ぎた。相変わらずソンユンとチャンジュンの間にはおかしな空気が流れ、必要最低限の会話が関の山だった。そんな中でもチャンジュンはソンユンの現場での身のこなしに見惚れて注意力が散漫になるのを誤魔化すことで忙しかった。 ドンヒョンはことあるごとにガイディングを迫るボミンをあしらうことに慣れると同時に疲れてきていた。休日にも部屋に押しかけ、タワーのどこにいてもすぐに見つけてくるボミンから逃げるのはかなりの労力を要したのだ。

「はぁ………」

「任務減らしたほうがいい?」

ガイドだけの訓練で束の間の休息を得たドンヒョンの盛大なため息に、デヨルが優しく声をかけた。

「あ、いえ、任務ではなく…」

ちらっとドンヒョンはガイドが特別講義を受けている別室に目をやった。

「ああ、ボミン?」

「あれどうにかならないんですか」

「本当に迷惑なら上に報告するけど」

「そこまでするのは……いや…でも…」

「今後心が動く可能性がないって思うならはっきりフッてあげたらいいんじゃないかな」

「フッ…!?いや、ボミンにはチャンジュニヒョンが居るじゃないですか」

「あー………あの二人は恋人とかじゃないよ」

「な、」

「そういうことか…」

「…?」

「う〜ん…でもとにかく、ボミンが何か感じたなら、ドンヒョンも何か感じたはずだけど…違う?」

「何か、ですか」

「ここのパートナー達はみんな初対面で気づいてたからね。俺も含め」

そしてデヨルは各パートナーの馴れ初めを簡単に説明した。アメリカでも何度も遭遇した、運命の瞬間。 ドンヒョンはボミンと初めて会ったときの記憶を辿ってみた。明らかに何かあるのに冷たくあしらったソンユンと動揺するチャンジュンのことが気になって忘れかけていたが、ドンヒョンも‘’何か"を感じたのは確かだった。パートナーが成立している手前、そんなはずはないと、気のせいだと自分に言い聞かせていたのだ。

──そもそも、こんなにかっこよくて何でもできるやつが俺の運命なわけがない。そんなに高望みはしてない。

ボミンとチャンジュンの関係がどうであれ、ドンヒョンは信じ切ることができずにいた。アメリカに渡るほどに運命の人を求めているはずなのに心は冷静だった。ソンユンを一人にしたくないとどこかで思っているのからなのだろうか。85%以上と組まないということは、84%のドンヒョンを超える相手が今後現れる可能性は低い。ソンユンの運命の相手がどうか見つかってほしい、とドンヒョンは強く願った。  

それぞれの思惑や悩みが入り乱れる中、軍と警察が連携した作戦はどんどん激しさを増していった。そしてついに、アジトへ突入する日。綿密に立てたプランにそって、何度も事前にシュミレーションを行ってきたが、それでもやはり能力者の犯罪組織は手強かった。あと一歩でボスを追い詰めるところまできたものの、ボミンはすでに限界が近く、基礎体力の高い三人も疲労が溜まっていた。視界も足元も悪い廃ビルで全方向に神経を尖らせ続ければ、いくらソンユンといえども消耗は激しかった。ボミンに応急処置を施しているチャンジュンの背後に忍び寄る微かな風音にも普段より感知が遅れていた。残党の放った氷柱はすぐそこまで迫っていた。

「チャンジュナ、危ないっ!」

一瞬だった。考えるより先に身体が動いていた。力を使う余裕もなく、ソンユンはチャンジュンの元に駆け寄り覆い被さっていた。

「ソン…ユニヒョン…?」

自分で自分が分からないといった表情で固まったソンユンは、自身に刺さった氷柱の痛みも感じられないほどに焦っていた。 ──今、俺は何をした?アイツのこと何て呼んだ…?

「ソンユニヒョン!後ろ…!!!」

飛んできた更に多くの氷柱はボミンの弱々しい炎でなんとか威力を抑えられたが、ソンユンの周囲の瓦礫が渦を巻きはじめた。蓄積していた精神ダメージにとどめをさしてしまい、力が暴走をはじめたのだ。

──ああ、もう、何もかもどうでもいい。 いくら抑えこもうとも、偽りの笑顔を貼り付けようとも、こうなってしまったら何ができるというのか。あと少しだったのに。あと少しで全て終えてアメリカに戻れたのに。チャンジュンへの未練も完全に断ち切れたはずなのに。

「ドンヒョナ、ボミンとチャンジュンさん連れて先に出口を目指せ」

そう告げると、瓦礫の渦を氷柱の飛んできた方向に乱暴に一つ、二つとブチ込んだ。建物に残るものは一人も逃さない。死んでしまえ。ボスが居ると思われる方角にもどんどんと何でもかんでも投げ飛ばしはじめ、倒壊するのも時間の問題だった。どうにかソンユンを制御しようと指示に背き留まっていた三人を外へ飛ばすと、さらに激しく攻撃を開始した。誰もが初めて見るソンユンの姿だった。もはや人間と言うよりモンスターと見紛う凶暴さで全てを無にするかのようだった。

──ヒョン、ダメですよ!人殺しにはならないで下さい!命令は生け捕りです…お願いだから戻ってきて下さい…!

ガイドの力を頼りに、チャンジュンはそう強く念じた。

──届け、届け、届け!

ドンヒョンもそんなチャンジュンに気づいてアシストをする。 異常を察知して駆けつけた別動隊とほぼ同時に、戦闘不能になった残党と共にソンユンが帰還した。ドサッと彼らを地面に投げ出すと、自らもその場に倒れ込んだ。すかさずドンヒョンがペアとしてどうにかしようと駆け寄ったが、ボミンがそれを許さなかった。ここまで消耗すると、もう救う道は一つしか残されていないからだ。

「触れるだけじゃ助けられませんよ」

「…分かってる」

「ドンヒョニヒョンには行かせません」

ガシッと細い手首を掴かまれては、ドンヒョンの力ではびくともしない。

「でも…俺にはペアとしての義務が…」

「ドンヒョナ、もう素直になっていいよ。ソンユニヒョンは俺が必ず救うから」

チャンジュンは少し強がってそう言った。誰も何もするな、近づくな、と脳内に流れ込んでくるソンユンの拒絶の言葉には聴こえないふりをして。ボミンに惹かれていることは明白なのにソンユンを選ぼうとするのは、きっと優しさと真面目さゆえなのだろう。

「ドンヒョニヒョン、俺もかなり重症ですよ?今日こそはガイディングしてくださいね」

「今日だけ!今日だけだからな!」

口喧嘩という名のじゃれ合いをしながら二人はバンに乗り込んでいく。どうやらボミンの勝利のようだ。これでもう安泰だ、とチャンジュンは心の中でささやかに祝福した。 タワーに戻ると、ソンユンはすぐさま地下の制御室に運ばれた。バイタルは危険な状態だった。

──熱い、痛い、苦しい。でもいいんだ、これで。救いなんていらない。

ソンユンはこのまま力を使い果たして命を落としてしまっても良いと、それが最善の結末だとさえ思った。自分が居ないほうがきっとチャンジュンは笑えるはずだと信じていた。だからもうセンチネルとして一番大切にしていた低出力も制御力も意味を成さなくなっていた。ただ心だけを固く閉ざして最後の時を待っていた。

管制室ではソンユンの元へどのガイドを送るかが話し合われようとしていた。手のあいてるガイドの中でなるべく適正値の高い者が、と誰かが言った。

「嫌ですけど…他に適任が居ないならジボム貸します…嫌ですけど…」

「スンミナ、行く…?」

ジェヒョンとヨンテクが渋々恋人を差し出そうと口々に答えた。

「でもソンユニヒョンのデータはアメリカだしシステムには登録されてないはず…」

相性をこっそりと調べようとしたチャンジュンはそれで諦めたのでよく知っていた。ペアとの%に全く興味のないソンユンは勝手に診断されないように自らのデータに厳重な取り扱いを施していたのだ。万が一にも運命の相手とやらに出会わないで済むように。

「そもそも、今から探して間に合うわけが……ううっ…」

──このままソンユニヒョンは死んでしまうの…?やっと会えたのに。やっと名前を呼んでくれたのに。

モニターに映るソンユンの苦痛に満ちた姿に、チャンジュンは涙が溢れて止まらなくなっていた。

「そのことなんだけどね」

デヨルがそう切り出し、ジュチャンに目配せをした。

「先に謝っておきます…ごめんなさい。実はお二人の心を読んでしまって」

「……はい?」

「タワーに新入りが来るたびに…出来心で…第一印象くらいいいかな?ってチラ見するんですけど」

ジュチャンに読心の能力があることは知っていたが、任務以外での使用しないという誓約があるはずだ。

「ソンユニヒョンだけ読めなくて。ガチガチに対策されてて…でも逆に燃えちゃって、タワーを案内してる間ずっと追ってたんですよ」

ソンユニヒョンならやりかねないな、とチャンジュンは思った。知らぬ存ぜぬを通すくらいだから、そういうことは徹底してるのだろう。

「でも、一瞬だけ、商店街のところで、本当に一瞬だったんですけど、チャンジュナ、って聴こえたんです」

「その時チャンジュンの様子もおかしかっただろ?だから絶対なにかあるなって」

「しばらく二人のこと観察させてもらったんですけど、ソンユニヒョンはそれ以降スキが全くなくて」

「逆にチャンジュナ、お前はダダ漏れだったぞ」

二人の出自やドンヒョンから仕入れたソンユンが85%以上とは組まない理由、チャンジュンの視線や脳内からデヨルとジュチャンは大体を把握したのだった。好奇心やボミンの希望もあるが、それより何より思い詰めているチャンジュンを見ていられなかった。ソンユンの直属の上司に事情を話してデータを入手し、秘密裏に検査にかけた。

「何とか間に合ってよかったよ」

「はい、チャンジュニヒョン」

手渡された通知書。そこに書かれていたのはソンユンとチャンジュンの算出結果。スンミンの示す先には”100%”の文字。

「そ…んな」

チャンジュンは床に崩れ落ちた。震えが止まらなかった。こんなにも遠回りをさせた神様を恨んだ。

「ソンユンを救えるのはお前だけだよ。お前じゃなきゃダメなんだよ」

「ありがとうございます。・・・いってきます」

ーーヒョン、ソンユニヒョン。二度も失ったりしませんよ。やっぱり俺は、俺たちは、運命なんですから。離れるなんて許しません。

階段を駆け降りて、地下二階まで急ぐ。扉の外ではドンヒョンが蹲って自分の無力さを呪っていた。

「ドンヒョナ、お疲れ様。後は俺に任せて。心配はもうしなくて大丈夫だよ」

「チャンジュニヒョン…?」

「今の俺は無敵だから!」

手の中でぐちゃぐちゃになっていた通知書を見せてVサインを作った。今度はもう強がりではなかった。

「お願いします」

ペコリ、と丁寧にお辞儀をして、部屋に入るチャンジュンを見届けてからドンヒョンは歩き出した。廊下の先にはボミンが待っていた。

「点滴とか諸々は外しておきました。モニターも切ってあります」

何かあれば緊急呼び出しボタンを押して下さいね、と付け加えて医療スタッフは部屋を後にした。

ベッドで魘されるソンユンにチャンジュンはそっと近づく。尋常じゃなく高い体温が、止めどなく流れる汗が、荒い息遣いが、終わりに向かっていることを知らせていた。ギュッと左手を包んで、ひとまず軽く口づけを一つ。8年ぶりに触れた唇は変わらず甘く、そして離れ難かった。もっと、もっと、もっと…求めるままに繰り返すうちにソンユンの表情は和らいできた。運命の相手だからなのか、チャンジュンは今までになくガイドの能力を実感していた。 朦朧とする意識の中、チャンジュンの姿を薄っすらと認識したソンユンはふっと笑った。

──きっともう死の淵なんだろう。どうせ醒めない夢なら満足するまで楽しませてもらおう。

ソンユンは願望が形になって、脳が都合よく見せてくれている夢だと思い込んでいた。夢の中なら、命が尽きる前のご褒美なら、過去も現在の柵も忘れて素直になることができる。

「天使か悪魔か…いや、死神?とにかく粋な演出してくれるね」

「ソンユニヒョン…?」

身体を起こしてチャンジュンを組み敷くと、ソンユンは壊れ物を扱うかのように優しく頬を包みこんだ。

「すごいね、チャンジュンにしか見えないや」

「本人ですよ、チャンジュンですよ」

「ん、分かったから」

──嘘でも幻でも、今はもうどうだっていいんだ。

全てを奪い尽くすかのように唇を塞ぎながら、自然と素肌に手を滑らせる。この8年の間忘れようとして、それでも恋しくてたまらなかった、その確かな温もりがそこにはあった。

「チャンジュナ、愛してる」

ソウルのタワーに来てから努めて思うことすら避けてきた本心が気づけば口から零れ落ちていた。

「俺も。いえ、俺がもっと…愛してます、ソンユニヒョン」

「ここまでサービスしなくてもいいのに」

──そんなに得を積んでたかな?短命を憂いてくれてるの?いや、運命に逆らって馬鹿みたいに想い続けてる俺を憐れんでるんだね。

チャンジュンの幻影が返す告白が現実とかけ離れすぎて、ソンユンは逆に少し虚しくなった。

「チャンジュナ、愛してる」

本人には響かないけど、と思いながら何度もそう口にした。

「ソンユニヒョン、あ」

──愛しています。

信じてほしいと祈りながら何度もそう返すのに、聞きたくない、と答えるかのように最後まで言う前に口を塞がれてしまう。重なった熱も混じり合った汗も刻印もすべて現実なのに。軽くなった身体も引いていく痛みも心地よさも運命の相手故なのに。

「…天国、ってことでいいのかな」

冬の淡い朝日に瞼を開いたソンユンの隣にはチャンジュンがぴったりとくっついて寝息をたてていた。頬には何本もの涙の跡。

「いや…俺のせいで泣いたのなら地獄か」

大切な人を傷つけた罪悪感が永遠に続くのは苦痛以外の何ものでもない。

「チャンジュナ、ごめん。お前には笑って幸せに生きてほしいだけなのに」

「何で謝るんですか?俺は今人生で一番幸せですよ」

「まさか…お前も死んだなんて言わないよね?」

「夢じゃなかったんですよ」

「うん?」

「だから…全部現実です」

「何を、」

「ヒョンも俺も生きていて、ここはタワーの制御室で、俺たちは両想いで運命でこれからもずっとパートナーなんです」

「信じられないよ」

「これを見ても?」

ソンユンの目の前に付き出した通知書。クシャッとそれを掴んだ両手は震えていた。

「100…?」

──そんな結果存在しないはずじゃ?俺がここまで望んだことはなかったはずなのに……これも罰?

「まだだめですか。ならとりあえずお医者さん呼びますね」

シーツを引っ張って身体を覆いながらボタンに手を伸ばせども、中々届かない。

「先に服着たら?」

床に散らばった衣類がふわっと宙を舞い、バサバサっとベッドの上に落ちてきた。

「検査終わるまで力使っちゃだめじゃないですか!」

「こんなの使ったうちに入らないよ」

──というかどうせ死んでるんだから関係ない…よな?

目を潤ませて怒るチャンジュンが可愛くて思わず笑ってしまったが、まだすべてを信じたわけではなかった。

「ヒョンも服着て下さい。でも起きちゃだめですからね!」

当のチャンジュンは飛び起きて、呼び出しボタンを押してからベッドを整え始めた。いくら取り繕ってもここで何があったかなど明らかではあるのだが。

「すべて正常値に戻っていますね」

「よかった…です」

検査の間、モニターの横に立ちつくしていたチャンジュンはその言葉を聞いてやっと肩の力を抜いた。

「チャンジュンさんが居なかったら今頃冷たくなってましたよ」

「あの…本当に…死後の世界じゃない、と…?」

「何の冗談ですか!勝手に私のこと殺さないでください」

面白くないですよ〜と呆れながら、医師はソンユンの左頬を強めにつまんだ。

「っ…」

「ほら、痛いでしょう?ちゃんと向き合わないと命の恩人に失礼ですよ」

「でも…」

「部隊の皆さんには報告しておきますね。自宅に戻ってもいいですけど、一週間は念の為安静にするように」

「命の恩人なのはヒョンもですけど…昨日は助けてくれてありがとうございました」

医師が去ってしばらく続いた沈黙を破ったのはチャンジュンだった。

「背中の傷…残っちゃいますかね」

「…」

「もうあんな無茶しないでくださいね。本当に怖かったんですから!」

「ごめん…俺がどうなろうとお前には関係ないと思ってたから…」

「ヒョンに何かあったら生きていけないです」

「それは俺の台詞」

「まぁ…そうですね…唯一無二のガイドなので」

「唯一無二、か」

「運命だって言ったじゃないですか」

不貞腐れたような顔で頬を膨らませ、チャンジュンは再度あの紙を突きつけた。

「再会した時何も感じなかったのは完全に諦めてたせいってこと?」

「心を徹底的に閉ざしてたからいけないんですよ!俺はずっと期待してたのに…」

「処世術が原因とか思わないでしょ」

「生死を彷徨わないと本当の気持ち言ってくれないなんて酷すぎますからね」

「…ごめん。俺が悪かったよ。愛してる、チャンジュナ」

不意打ちの愛してるに顔を真っ赤にして固まったチャンジュンを、ソンユンはギュッと抱きしめた。今ここに、確かに存在していることを自分に信じさせるかのように。

「ヒョンはもう、ずっと俺のそばに居ないとだめですよ」

「うん、約束する」

「絶対ですよ」

「泣いて頼んだって離さないから安心して」

「なんですかそれ!」

「じゃあ帰ろうか」

差し出された手を握って、二人で地下を後にする。

「ヒョン、どこ行くんですか?」

家と反対へ歩き出すソンユンにチャンジュンはそう問うた。

「生活課。善は急げでしょ」

タワーの行政を担うモダンな建物の二階。手持ち無沙汰にしていたおじさんにIDを提示して一言。

「二人用の部屋を見たいのですが。本部近くのマンションじゃなくて、できれば商店街あたりで」

「あ、ええ、はい…ちょっと待って下さいね」

「ヒョン、ひょっとして…」

「お前の想像で合ってるよ」

「カフェの二階が空いてますが…」

「良いですね。そこにします、今すぐ契約できますか?」

「先に見てみなくてよろしいので…?」

「タワー内に知らない場所なんてないですし。今日引っ越したいので」

「かしこまりました。では鍵と契約書を急いで用意いたします」

「助かります。ありがとうございます」

ペコリ、と頭を下げ、ソファに腰を下ろす。アメリカから招聘されたソンユンはVIP扱いらしく、すぐに全ての手続きが済んだ。チャンジュンが荷物をまとめて新居に着いたときには、清掃も行き届いた状態になっていた。元々スーツケース一つのソンユンはすでに荷解きまで終えていて、コーヒーのいい香りが漂っていた。

「何でこんなに急いだんですか?」

窓辺にカップを片手に並んで、夕陽を眺めながらチャンジュンは尋ねた。

「夢が覚めたら嫌だから?」

「信じてくれたんじゃ…」

「冗談だよ。現実ならそれこそ、時間が限られてるでしょ?1秒でも長くお前と一緒に生きていきたいから、って言ったら?」

「限られてるって…まさかアメリカに…」

「違うよ、人間いつかは死ぬって意味。お前が望むなら一緒に戻ってもいいけど…しばらくはソウルに居たいかな」

「一瞬焦ったじゃないですか!興味はありますけど、俺も今はヒョンとここでゆっくり過ごしたいです」

「チャンジュナ」

「はい」

「死の淵から救ってくれてありがとう。それから…お前に再会したこと、あの時は素直に喜べなくてごめん」

「ソンユニヒョン」

「ん?」

「本当に幸せな初恋でした。失ったときは辛かったけど、今は仕方がなかったって理解できます。ちょうど力が発現しちゃったんですよね。それでも…ずっと俺だけを想っていてくれてありがとうございます」

「お前が俺の運命のガイドだって知ってたらこんなまわり道しなくてすんだのにね」

「試練ってやつですかね」

忘れたくても忘れられなかった、苦くて甘い初恋。宙ぶらりんで終わってしまったのは、本来あるべき関係になれていなかったからなのだろう。もしくは、この再会を、運命を演出するためのプロローグだったのかもしれない。センチネルとガイドとして、固い愛で結ばれたパートナーとして、二人が生きてゆくための必要悪。

──お前は、

──ヒョンは、

──"俺の片割れ"

The other half, my destiny



***


2022.02.12


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